更新日:2002/08/13
本名 | エレーナ=ディミトリエヴィナ・ディアコノワ |
生誕地 | ロシア、タタール州、カザン |
生年月日 | 1894年9月7日 |
死亡年月日 | 1982年6月10日 プボルの城の地下納骨堂に埋葬されている |
ガラは、ダリの人生と芸術の中心となった人物でした。ダリはガラを通じて社会生活をし、活動することができました。ガラは妻・ミューズ、保護者・支配者・マネージャー・秘書であり、神々しい松葉杖の役割を果たしました。ダリは常にガラの「ダリ坊や」だったのです。
パリへの進出 |
ガラは、18歳の時、結核治療のためにひとりでスイス、クラヴァデルのサナトリウムに入院しました。そこで、ウジェーヌ・グランデル(ポール・エリュアール)に出会いました。二人の若者は文学によって結びつくようになり、密かに婚約をしました。2人とも結核が完治して退院し、離ればなれになりましたが、ガラはエリュアールを追ってパリへ行き、結婚をしました。
ガラはエリュアールとの出会いをきっかけにして、片田舎のカザンから芸術の都パリへ進出したのでした。
画家狩り |
夫であるエリュアールは芸術を愛し、才能豊かな芸術家に魅せられていました。彼は、ドイツ人の画家マックス・エルンストの才能を知り、パリに出てくるように説き伏せ、奇妙な三角関係の生活を始めました。ガラは、エルンストを加えたグループセックスを受け入れたのみでなく、才能ある画家を手に入れるために、夫婦協力しての「狩り」をするようになりました。ローマにいたキリコもターゲットにされました。
ダリとの出会い |
1927年7月、エリュアールとガラは一人娘のセシルを連れて、ダリの住むカダケスへ行きました。その頃のダリは激しい笑いの発作に悩まされて、都会人のガラは頭のおかしい田舎者のダリを目にもとめませんでした。
ダリがその頃に描いた「悼ましい遊戯」にスカトロジー的な表現が描写されていました。その真意の確認と好ましくないとの忠告をする役をガラがすることになりました。
カダケスの海岸で2人だけの会話をしました。その内容は詳細には分かりませんが、ガラはダリを理解し、生涯を伴にする決意を固めました。
ダリがガラのために何が出来るかを訊ねると、ガラは「私を殺して」と答えました。ダリはガラをトレドの大聖堂から突き落とそうと考え、この秘められた欲望を共有することで、ダリの狂気は癒されたといいます。
ダリとガラの出会いは、ダリの人生において最も重要でドラマチックな出来事になりました。
ミューズとしてのガラ |
ガラは、シュールレアリストグループ内でミューズの役割を果たした数少ない女性のりとりでした。画家がきわだった作品を制作すると「ガラと恋した」と言われるほどでした。
結果的に、ポール・エリュアール、マックス・エルンスト、サルバドール・ダリの芸術を開花させるミューズの役割を果たしました。ガラは、人類の遺産ともなるすばらしい芸術作品を生み出す原動力になったのでした。
ダリの絵を描く環境 |
ガラとダリの最も優先されるべきことは、ダリが絵を描くことでした。全てに優先されるようになりました。ガラはアトリエの整理整頓に気を配り、最高級の絵具や絵筆をそろえ、完成した絵を引き立たせることのできる額の収集をも行いました。
ガラとダリが大戦から逃れてアメリカへ渡り、カレス・クロスビーの別荘ハンプトン・マナーに滞在している時に、ガラは書斎をアトリエにしてしまい。他の客人をダリの運転手や使い走りにしてしまいました。
絵の中のガラ |
理想的とも言えるダリとガラの関係が、修復できない状況になってきた頃から、ダリは絵の中で、ガラを性とは無関係の「聖母」として描くようになりました。ガラ本人が性に狂った恐るべき女になったとしても、ダリにとってはガラは永遠の存在でした。
恐るべき狂女 |
ガラとダリは、ミューズと天才として理想的な関係を創りあげました。しかし、人間の女と男としての充分と言える関係は創れませんでした。性的なパートナーでないガラには、慢性的な欠乏感があったと考えられます。
ガラは若い男が好きでした。マックス・エルンストの息子のジミーに色目を使ったり、プボル城に金髪のロック歌手を囲い、モース氏まで誘惑する始末でした。