本名 | サルバドール・フェリーペ・イ・ハシント・ダリ |
1904年5月11日生まれ~1989年1月23日死亡(享年84歳) | |
出生地 | スペイン、カタルーニャ地方、フィゲーラス市 |
埋葬地 | フィゲーラス市ダリ劇場美術館内 |
妻 | ガラ(本名:エレーナ・ディミトリエヴァナ・ディアコノワ) |
父 | サルバドール・ダリ・イ・クーシ |
母 | ドーニャ・フェリパ・ドメ・ドメネク |
妹 | アナ・マリア |
画家サルバドール・ダリ |
サルバドール・ダリは20世紀を代表する画家のひとりで、シュールレアリストでした。独特の口髭と奇矯な言動で話題を振り撒きましたが、根っからの画家でした。作品は「柔らかい時計」や「変形した肉体」「ダブルイメージ」等を巧みに用いた作風で従来の価値観をくつがえす画期的なものでした。
ダリの基礎形成 |
サルバドール・ダリの生まれる約9ヶ月前に兄サルバドール・ダリが幼くして死亡しています。サルバドール・ダリが生まれると両親は死んだ兄と同じ名前を付けて溺愛しました。ダリは自分と同じ名前の刻まれた墓石を見せられ自分自身の存在を証明しなければならなくなりました。そのため、並外れた自己愛が形成されました。
ダリは幼い時期を地中海に面したカダケスやフィゲーラス周辺で過ごし、その風景はダリの潜在意識の背景となりました。また、腐敗した鯨の屍骸を見たり、魔女の末裔と呼ばれていたリディアとの魔術的な夏をとおしてダリの絵の基本的な題材となる経験をしています。
ダリ家と交流のあった裕福なピチョート家の人々は早くからダリの才能を見抜いて、美術や音楽・文学という未知の世界をダリの目の前に開いてくれました。ダリに美術の関心を持たせたのはラモン・ピチョートでした。また、フィゲーラスではジュリアン・ニュヌス教授にデッサンを学び画家としての基盤がつくられました。
ダリ、自らの画法を築く |
ダリはマドリードのサン・フェルナンド美術アカデミーへ入学しました。ダリはアカデミックさを期待していましたが、教授達は期待はずれで失望しました。しかし、研究熱心なダリは授業をざぼってプラド美術館で独自の研究をしました。これがダリの技術向上に大いに役立つことになりました。やがて、教授陣との衝突で放校処分になりましたが、学生寮(レシデンシア)での詩人フェデリコ・ガルシア・ロルカや後の映画監督ルイス・ブニュエルらとの交友で芸術に対する厚みを増すことになりました。また、学生時代に読んだフロイトの夢判断に大きく影響されました。
美術アカデミーの退学後、ダリは故郷でひとり孤立して約3年間絵を描き続けました。これがダリ自身の絵の方向性を確立するのに重要な時期であったと言えます。後にアンドレ・ブルトンらのシュールレアリスムグループと出会いますが、ダリは既に自分の画法を確立していました。やがてダリはグループから追放されましたが、政治的な干渉も受けず社会的な駆け引きにも無頓着で絵を描くことだけに関心のあったダリこそが真のシュールレアリストであったと思います。
ガラとの出会い |
ダリの人生で最も重要な出来事は、1929年夏のガラとの出会いでした。ダリがガラのために何が出来るかと訊ねると、ガラは「私を殺して」と言いました。ダリはトレドの大聖堂からガラを突き落とすことをイメージし、この秘められた欲望が2人を強く結びつけることになりました。ガラはこの時詩人ポール・エリュアールの妻でしたがダリのパリでの個展の直前にダリと駆け落ちをし、以後生涯を通じてダリの神聖な聖母であり、保護者・支配者・マネージャーであり続けることになりました。
ダリ芸術の開花 |
ガラとともに世界へ漕ぎ出したダリは、たとえドル亡者と呼ばれようが独自の価値観を作品の中で展開し、時間・宗教・量子力学・遺伝子学などをモチーフにした作品を次々に制作していきました。ダリの創造の場所はカダケス近くの入り江ポルト・リガトに構えられ、各地で開かれた個展や回顧展はいずれも成功しました。生まれ故郷のフィゲーラスにはダリ劇場美術館をつくり、フロリダのセントピーターズ・バーグには絵画では最大のコレクションを集めたダリ美術館がオープンしました。
ダリ芸術の終焉 |
ダリの心の拠りどころであるガラが荒れた生活をするようになっても、ダリのガラに対する従属の態度は変わりませんでした。ガラが1982年に亡くなると拠りどころを無くしてしまい、翌年の「燕の尾」が生涯最後の作品になりました。1989年1月に亡くなったダリは自分の出生地であるフィゲーラスの自分自身で計画したダリ劇場美術館内に埋葬されています。